未来へと相変わらず続いていく“人間”達の物語 - 「惑星のさみだれ」

11月ラストから、一体何度、泣き燃え尽きれば良いのか?
鋼の錬金術師」から「3月のライオン」と来て、11月を締めるのは「惑星のさみだれ」(水上悟志)。
10巻で完結というキリの良い巻数ながら、圧倒的なまでの高密度な内容。
この作品もまた、完結巻を待ち望まれた、疑いようのない名作と言って過言ではないはず。
惑星のさみだれ 10 (ヤングキングコミックス)
この作品、徹頭徹尾、「“人間”だからこそ」が詰まった“人間”達の物語だったと思う。
第4巻第27話で、雪待と昴を通して、亡き稲近から破壊神アニムスに伝えられた言葉。
「私達は人間だ」
この言葉は、後に、その意味をどんどん増して来る。
そして、この言葉こそ、「惑星のさみだれ」を一言で表現していると思った。

“人間”だから脆く弱い。

周知の事実として、人間は脆くて弱い。
その覆すことのできない事実は、今作でも同様で、幾度も壁となって騎士団の前に立ち塞がった。


太郎を喪った後、涙を流す事どころか表情一つ変えずに、死者の事後処理を行った風巻と南雲。
何日経っても悲しみを表に出さない二人を、クーは「強い人」と感心して言った。
が、風巻の答えは「…強い人なんか居ないよ…」という一言のみ。
当然、最年長の二人の大人は、必死に悲しみを抑えているだけ。
人間だから、感情の乱れがあって、強さが精神状態に左右される事もある。


最終決戦が迫る騎士団の前に現れた、かつてない強敵:11体目(マイマクテリオン)。
弱すぎる騎士団に苛立ちを覚えたマイマクテリオンは、騎士団ではなく、彼等の家族や友人を殺すと脅す。
11体目を、そして12体目とアニムスを倒すために、自分達はどんな覚悟で何が出来るのか、改めて彼等は向き合い考える。

これは「地球を守る正義の戦い」なんかじゃなく

自分の生活を守るための戦いなんだ

守りたい人達がいる

だから

この3人から始める

「正義」や「地球」なんて漠然とした大きすぎる物、そもそも守る実感が湧かないかもしれない。
同時に、自分の生活すら守れない人間が、それよりも遥かに大きい物を守れないかもしれない。
実際、最終決戦に到るまでに、彼等が守りきれなかった人達は一人でない。
人間だから、背負える・守れるモノには限りがあって、自分の周囲の“みんな”でさえ守りきれないのかもしれない。


10巻65話の中で、人間の脆さ,弱さ,非合理さは何度も違った形で描かれている。
その最たる者が、アニムスという神を夢見た“人間”だとも思える。

“人間”だから成長する。

でも、沢山の未熟を持った存在だから、人間は成長できる。
惑星のさみだれ」という作品は、子供が大人の背中を見て成長していく物語だった。
主人公の夕日は、半月を始めとした大人達を見て、成長していった。
そして、その夕日の背中を見て、さみだれや太陽達も成長していった。


また、同い年の他の人間を見て、自分が成長していく物語でもあった。
夕日には三日月、花子には太郎、昴と雪待はお互い、その二人と太陽。
対照的だから、自分にないモノを持っているから、互いに影響を与えられる。


この二種類の成長は、一つ一つ挙げていったら枚挙に暇がないはず。
では、成長するのは子供だけなのかと言うと、それは違う。
もう一つ、大人の成長も、作中で幾度も描かれている。


例えば、南雲は、初期は中学生3人を戦場に連れ出さないようにしていた。
死の危険が当たり前の戦場に、命のやりとりに、子供は相応しくないと。
着いてきてしまうのであれば、全員自分が守れば問題ないと。
実は、真逆の考え方をしていたのが、雪待と昴の師匠だった稲近。
大人のエゴで、真実がある戦場から子供を遠ざけてはいけないと。
自分が犠牲になってでも、戦場での真実を伝えようと。


しかし、どちらの考え方も、力を持つ大人の傲りである事を彼等は学んだ。
大人の気付かぬ内に子供は大きく成長しているという事を、彼等自身が成長して気付いた。


いつまでも、どうしようもなく未熟な人間だから、いつだって成長できる。
夕日と三日月の試合を観戦して、太陽が思った事が、“人間”の成長の可能性を如実に示している。
いつか大人になる

今は辛いことばっかりだけど

多分

大人になれば楽しいことはあるんだ

ロキ

ぼくもいつか大人になるんだな

これまでの人生も、泥人形との戦いも、彼にとって苦しい物でしかなかった。
でも、獣の騎士団になってから、少しずつ少しずつ太陽も変わって行った。
今したい事をするようになった太陽が、これからして行きたい事を見付けるようになる日は、きっとそう遠くない。

“人間”だから強くなれる。

成長という無限の可能性を秘めた存在だから、心身共に強くなれる。
それは、アニマから獣の騎士団に与えられた超能力サイキックも同様。


超能力は、実際に起きる現象と無意識の領域から確信を以て創り出す物と、アニマは説明した。
ロキから中学生の太陽への説明では、獣の騎士団に選ばれた12人は、

  • 「脳のネジの特別外れやすい選ばれしバカ達」
  • 「ありえないことを受け入れ、その存在を確信できる者」
と評されていた。
実際、何となく出来る気がするという理由だけで、さみだれは見る見る超能力を向上させていた。
その彼女曰く、超能力は想像以上にデタラメでテキトー。


さみだれと同じように、他の騎士も意識的/無意識的に確信を経て、超能力を発動させている。
そして、その最たる例が、夕日の師匠・三日月の兄:東雲半月。
「無限の肯定」という超人染みた考えを体現する彼は、直感し肯定し確定し続けるこそが、天才の強さだと断言する。

技なんかオマケ!!

おれすげーの瞬間を!!すげーおれの瞬間を!!

肯定し肯定し肯定に肯定をかぶせろ!!

考えるな!!
直感し続け

肯定し続け
確定し続けろ!!

しかし、対峙した夕日は、天才ではない人間の新たな可能性を示し、天才の師を超える。
天才になれない自分は、自分なりに思考し問い回答を続ける事で、蛮勇を得るのだと夕日は言った。
これもまた、別の確信で得た強さの形。


また、強さの一つの究極の形:全知全能になったとしたら、そこが成長の限界ピーク
頭で知った“全知”をただ再現するだけの“全能”は、傲りと摩耗と無力感に苛まれるだけ。
全知など下らない

喜びも…悲しみも…全部弟子達に教わった…

「全てを知るもの」に心を震わされたことなど一度もなかった…

大事なことは知るだけではダメなんだ…

時間をかけ魂に刻み込まねば…
全知など…くだらん…

全知全能となり、かつては自分が神の領域に至ったと思った稲近。
そんな彼が長い年月をかけて学んだ答えは、全知全能は真の強さではないという事。
学び知った事を体験して、時間を掛けて体と魂に刻みこんでこそだと、稲近は逝く間際に述べた。

そんな“人間”達が紡いでいく物語。

最終話、戦いから10年の月日が流れ、それぞれのその後が描かれる。
敢えてどんな場面か詳しく書かないけれど、朝比奈家・さみだれに関する事で、父:時雨に対して、母:春子は力強く言う。
神業ではなく、人の業

時雨
「そうか
さすが神業ゴッドハンド

春子
「いいえ
人の業よ」

この場面で成し遂げた事は、アニマ(の願い事を叶える能力)ではなく、“人間”の春子の業だった。
そして、この言葉の意味する事が、常に「惑星のさみだれ」という作品の根底にあったと思う。


人間は脆くて弱いという事を知っているから、氷雨は「次なんてないかもしれない」と悲観した。
また、白道はその事実を受け入れて、「生きてる限り死亡率100%だもの」と断言した。


でも、「それでも」と春子は答え、続けた。
「明日を信じるのが医者なのよ」と。
白道も、さみだれに胸の内を吐露した。
生きているからこそ、人間は「幸せになれるのよ。人は、幸せになっていいの」と。


成長できるのも、希望を抱けるのも、未来へ進めるのも、全て“人間”だから。
どうしようもない“人間”の弱さを否定する事なく、無限の可能性に満ちた“人間”の強さを描く。
“人間”達の物語、まごう事なき名作の完結、全身全霊で感謝と敬意を表したい。
水上悟志先生、こんなにも高密度な五年間、本当にありがとうございました。

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余談

最終話の直後、全面真っ黒なページに白い文字で「惑星のさみだれ」と書かれている。
それから捲ると、全面真っ白なページに黒い文字で「ほしのさみだれ」と書かれている。
地球破壊を望んだ・絶望の中にいた惑星さみだれと夕日の精神世界は、コマの外側が黒く、コマの中も暗かった。
一方、現実世界のコマの外側は当然白く、最終的に二人は未来へ希望を持って進む選択をする。
そして、最後の戦いの後、二人の上空にはほしさみだれが降り注ぐ。
完結巻最後の対照的なページを見て、この黒と白・惑星とほしの使い分けも、もしかしたら関係があるかもしれないなぁと思ったのでした。